兎 夜 曲

雑踏に兎つぶやくおりおりを美辞麗句舞うネオンの骨牌

冠庭園
宵の宴　案内びとの細き手を燭台となし燃ゆる木蓮
月光にふち裂かれたる庭かむりねむれる地球【テラ】の夢に佇ちおり
腕のぶる木の間に星はかくれいて虫のさけびの何処にか消ゆる

月絡繰
きときとと鎖を引きて月揚ぐる天の滑車ののぞきからくり
触るる手は凍りて朽ちん　鋼玉をヘパイストスはかつて鍛えき
沼の面に蛍の想い纏うがに貌【かたち】うつせる宵鏡かな

顕微鏡
瑠璃の夜　珪酸の夜　精霊【ジン】の夜　プレパラートの泡沫の夜
まといつくみどりの布をひきむしりはじけとびちる細胞のノヴァ
黒雲母ピンセットもて剥ぎゆくは降りつもりたる夢のひとひら

終電車
水漬きて転轍機【ポイント】もだしあかあかと引込線は星の河床へ
渋谷〜池袋間
夜を撥ねて草いろ車輛の窓昏し葱坊主たちゆらりまどろみ
地下都市のシナプス結ぶ銀の艦【ふね】駆る人類【ヒト】もまた縺るる画像

曙光浴
藍いろに腕染め上ぐる硝子窓　あけぼのを浴び湯船を出でぬ
浴槽に創世ありき　わが膚をぬぐいて泡の孵るさま視る
タイル踏む脚を得たればあそぶ姫　鱗の記憶すずやかにして

星座盤
蠍座に生【な】れる光の木の実爆ぜ紅き飛沫にそぼちて寒し
踊れ君　裳裾をひろげ珠はらむ銀河とともにわがてのひらで
金星を割れど雫のこぼれなくわれらは鉄の種族に堕ちぬ

遁走曲
言の葉の果つるところに時の輪を回して湧けるいずみのしらべ
生命の地球舞台に上がれるは進化と呼ばるる遁走曲【フーガ】のごとし
バッハ「前奏曲とフーガ　ハ長調」BWV531
三月の夜の嵐のポリフォニー　星に溜れる東風集めんと

青騎士
青騎士の電波を張りて新月を狩れる武勲【いさおし】　永遠の午
黒き野にりぼんを敷きてシャガールの眸の仔牛駆りエウロペ走れ
聖堂の光陰【とき】をしるせる人柱　屋上【うえ】なき塔をわれも登らん

彷徨人
海原に薔薇を撒きたる乙女あり　わが息運べ　臓腑【はら】を抱けと
おなじ声おなじ臥所に目覚むれど彷徨人【さまよいびと】の空はたがえり
蒼穹をつらぬきゆける速力に奈落の天の黒髪かなし

WATERSHIP DOWN
たわむれに兎うたえる小夜曲に銀の耳寄すエル・アライラー

【　】内はルビ

『兎夜曲』佐藤弓生
私家版　1988年